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2000年4月、北海道根室市に謎の食文化をもたらした料理人、「エスカロップの父」と呼ばれる古村欣也(こむらきんや)さん(*)の消息を知った私は、古村さんが住む山梨県に向かった。車窓から見える桃林はまだ十分な花模様ではなかったが、すももの花との対比が鮮やかだった。
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山梨県塩山桃源郷
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古村さんにお会いしたら、聞きたいことはたくさんある、しかし、実際に電話で古村さん自身とお話して面会を決めていたわけではなく、古村さんの奥様の了解でお会いすることになっているだけだ。あの謎の料理人がほんとうに会ってくれるのだろうか?不安が何度も頭をよぎった。
そしてその不安は、山梨に降り立って電話をした時点で的中する。会いたくない、というのだ。あとわずかというところまできて、料理人の頑固な職人気質が面会に水を差しているのだろうか。
せっかくここまで来たのに会えなかったら・・・私は必死だった。古村さんの奥様も、「会わない」といい張る料理人と私の間に入って困惑していた。思っていた通りの人だ、私は面会を拒否されているにもかかわらず、職人らしいそのストレートな感情に不思議な共感を感じた。もしも私が逆の立場だったら、気難しい職人気質が頭をもたげ「会いたくない」と、同じことを言うに違いない・・・電車の中で想像していたシーンがそこにあった。
会いたくない、いまさら古い話だし・・・と繰り返す古村さんを氷解させたのは、「故郷(ふるさと)」という言葉だった。古村さんは北海道南部の砂原(さわら)町の出身で、私は偶然その隣町の森町の出身だったのだ。この事実は、先の奥様への電話で知ったことだった。「故郷」・・・ほとんど私の中では忘れかけていたようなこの言葉がもうあとがないという最後の説得でふっと出てきたのだ。古村さんの気持ちが大きく変わった。「同郷ならば、会わねばならないな」古村さんがぽつんと言った。うれしい言葉だった。
こうして私は、ようやく古村さんにお会いすることができた。
(*) エスカロップと古村欣也さんに関して、又、これまでの経過に関しては本コラム「前編」をご覧ください。
◆ふるさとに近づきたくて根室に行った
会うことを拒否していた古村さんを変えた「故郷」という言葉は、古村さんにとって今から38年前、根室市へ旅立ったときのキーワードでもあった。
函館の高校を出て料理人の道を歩んだ古村さんは、東京、横浜で修行を積むうち北海道への思いが募っていったという。給料も無く賄(まかな)い飯だけで働いた修行時代、風邪を引いてお店を休むと食事にさえありつけず布団の中でひもじい思いを押し殺していたという。
| 根室時代を懐かしそうに話す古村さんご夫婦 |
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ようやく楽になったのは30歳近くになって横浜のレストランへ行ってからだ。
「横浜時代は楽しかったわねぇ」
当時横浜の野毛の老舗とんかつ屋「かつ半」で働いていたという奥様が相槌をうつ。二人は昭和38年に結婚した。そして、人もうらやむ新婚の二人に突然北海道根室市での仕事の話が舞い込む。根室市のレストラン「モンブラン」がイタリア料理の職人を探していたのだ。
「ちょうど結婚して、北海道で仕事ができればいいなぁと思っていたとき、出入りしていた洋食器屋さん(**)から話が来てね」・・・横浜の有名レストラン「イタリアンクオーター」のセカンド(チーフの下でキッチンをまとめ上げる役割)だった古村さんは、自分の力を試したいという気持ちと、故郷へ帰りたいという強い気持ちから、根室行きを決意した。
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根室市は北海道の最東端の町、古村さんの故郷砂原町とは正反対の位置にある。「当時はただただ北海道に帰りたくて、砂原から遠くても北海道ならいいと思った」古村さんは、昭和38年4月から39年10月までの1年半を根室市で過ごすことになる。
◆エスカロップのルーツはエスカロッピーニ
根室市のレストラン「モンブラン」は、最果ての街には珍しい本格的な洋食レストランだった。調度から食材まで、ほとんどすべてを横浜から運んだという店作りは、根室地方の大網元の鈴木家がその財力にものをいわせた産物である。横浜から来た気鋭の料理人が腕を振るうには最高の場であった。
調理場に立って古村さんがまず考えたことは、根室は(当時)缶詰工場の女工さんなど、若い女性が思ったより多くそれが町を活気あるものにしていたので、まず女性にターゲットを絞り、女性が喜ぶメニューを用意することだった。横浜で勉強した洒落たイタリア料理をベースに、サラダ、ライスを一皿に盛り付けるスタイルを取り入れたが、それは、現在のランチメニューに通じるもの。昭和30年代の根室では斬新なものばかりだった。
そのような中で、エスカロップが生まれる。
仔牛の薄切り肉に塩コショーし、パン粉をつけてバターソテーしたあとパルメザンチーズを振ってオーブンで蒸し焼きにするというスタイルが当時のエスカロップだ。今のような豚肉ではなく、仔牛肉を使うという本格的なイタリア料理だった。料理名としては、エスカロッピーニが正しいのだが、これでは発音しにくいということから、メニューにはカタカナでエスカロップと書き、その下にイタリア語の綴りを入れた。エスカロップの誕生である。
◆エスカロップはなぜ根室に定着したのか
古村さんが根室を去って36年、エスカロップはなぜここまで根室市内に普及したのだろうか。そこでは根室の料理人たちの創意工夫が大きい。
手に入りにくい仔牛肉を豚肉に変えたこと、フライパンでカツをソテーする方法を、より簡単なフライに変えたことなどは、ひとつの料理がポピュラーになる上では大事な要素(作り易さ)である。また、手に入りにくいバターライスのマシュルームは竹の子で代用するなど、地域で手に入り易い食材に置き換えたということも大きい。その上で、デミソースにはこだわりを持ち、料理人としての力量を発揮することができるようにしている。これは、この料理をただの安直なものとせず、料理人としてのプライドを満足させるものにしている。料理人から料理人に伝わるには、「学ぶ価値」のある料理でなくてはいけないのだ。
◆妻にとっては異境の地だった
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古村さん夫婦が根室市に滞在したのはわずかに1年半である。「モンブラン」は大繁盛し、古村さんもまだまだまだ根室で働きたかったそうだ。しかし、新婚の妻にとって根室は異境の地だ。夫は故郷に近い土地でやりがいのある仕事についたが、妻にとっては泣く毎日だった。
しばらくして娘が生まれると、故郷を遠く離れたことの不安が妻の中でさらに募り、それは耐えがたいものになった。
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流氷に覆われた根室海峡
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もう限界だと悟り、厳しい冬が来る前に根室を離れたのは昭和39年の10月だった。
それから36年間、古村さん夫婦は一度も根室に戻っていない。根室市で生まれた娘さんも、生まれ故郷の根室を知らないという。
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| お店を切り盛りする古村さん
(山梨時代) |
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そして、北方領土や特産の花咲ガニと並んでエスカロップが観光名物になり、喫茶店やレストランの定番メニューとして人気料理になっていくことも知らず、横浜、小田原で料理人として生き、昭和50年代に山梨県に移住した。
そこは、最果ての街・根室で泣いた妻の故郷だった。
その後「ほかほか弁当」のお店を自力で開発し、甲府市を中心に10数店舗を経営するほどになったが、10年程前引退した。
いま古村さんは、囲碁を趣味に悠悠自適の生活をしている。捨てられた犬や病気の犬を引き取っているうちに5匹になったと笑う古村さんの目はやさしかった。
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出入りしていた洋食器屋さん(**)・・・
横浜のレストラン専門「若林洋食器店」のこと。営業が御用聞きに頻繁にお店を訪れていた。料理人に頼まれて仕事の紹介をすることもあった。筆者自身、横浜での修行時代に若林さんのお世話になっている。
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